織田信長の時代の「人生50年」は、今では「人生80年」!
さあ、これからどうなるのでしょう。
生きがいを見つけられないシニア世代にとってこれからの残された人生の憂いに戸惑う日々が切なくもあります。
この記事では、矢のように過ぎ去る1日そして1年ではありますが、これから20年の歳月はあまりにも長く遠い道のりではありますが、生きがいを持って、元気に生き抜くための知恵を同じシニア世代の私と一緒に考えていきましょう。
シニア世代こそ、若い人達に影響力を持つ存在でありたいものです。
目次
1 生きがいのない人生とは?

息とし生けるモノ、この世に星の数ほどありますが、人生において生きがいを意識するのは人間だけですよね。
なぜ人生には生きがいが必要なのでしょうか・・・
生きがいとは?
それは「生きがい」という言葉があるからではないでしょうか。
もし「生きがい」という言葉がなければもっと楽に生きられたのではないかと個人的に思ったりもしています。
Wikipediaによれば
生きがいとは「生きることの喜び・張り合い」「生きる価値」を意味する
とあります。
では人生において、「生きがいがない」とは「生きる価値」を見失い、「生きることの喜び・張り合い」を見つけられないのでしょう。
他の生き物を考えると、人間と同様に長命の生き物も短命の生き物もあります。
人以外の生き物にとっての生きがいとは何なのでしょうか
ただひたすら、天命に従って生き抜いているだけではないでしょうか、でもその生き様はすさまじく弱肉強食の環境を生き抜いています。
鮎の一生に学ぶ

私は長く生き物(魚)のつくり育てる仕事をしてきましたので魚の話をさせてもらいますが、「鮎」という魚の生きざまにいつも励まされ、慰めてもらってきました。
鮎の一生はたった1年です。でも鮎にとってはとてつも長い1年なのです。
毎年11月頃、川の中流域の綺麗な湧水があるような石ころ底で外敵から逃れるように夜間に誕生します。
そして生まれるとそのまま川の流れに乗って海へ流れていきます。
生まれた環境が淡水であるのに、誕生翌日には海水に身を置くのです。
魚にとって淡水から海水の環境の変化は劣悪極まりないのです。
流れ出た海で一冬、海洋に生息する動物プランクトンを食べて大きくなります。冬の海もまた劣悪な環境です。
特に私の暮らす北陸では冬季の季節風の影響を受けて鮎にとってその生息環境はすさまじく劣悪です。
でも鮎はしっかりと成長して桜の季節を過ぎ雪解けの水がぬるむ頃、ゴールデンウィークあたりですが、川を遡上してきます。
その川を遡る姿は若鮎と呼ばれ、その銀鱗を見るたびに私たちは初夏の陽気と活力を得るのです。
生まれた中流域を通り過ぎてさらに源流を目指して棲家を見つけて縄張りを作ります。
その棲家の条件は日当たりの良いところで、苔が十分に繁殖する場所なのです。
鮎は川に遡上すると食性を変えて苔を主食に成長します。
地方によればこの鮎を「香魚」とも呼ばれているほど餌である苔の食べる量の多さに驚きます。
縄張りを維持するば苔は日差しを得て鮎にとっては無尽蔵の餌なのです。
そして秋が深まり落ち葉の季節に生まれた産卵場所を目指します。これを落ち鮎を呼ばれてメス鮎はしっかり卵を抱えています。
産卵場所を見つけた鮎は繁殖を終えて鮎の一生を終えるのです。
鮎の亡骸はそのまま腐敗が進み、他の生き物の餌となるのです。
このたった1年の生きざまがあまりにも劣悪な環境を生き抜き、人間や鷺などの天敵をかいくぐり子孫を残す偉業をなんとすごいと思わざるを得ません。
このはかない1年の一生を鮎は懸命に生き抜くわけで、たった一瞬の過ちや考え違いは即、死を意味します。遺伝子に組み込まれた生き方をひたすら生き抜くだけの一生なのです。
私たち人間はこのアユの一生サイクルの1年を80回も繰り返せるわけです。
去年と全く違った1年を送ることだって人間は可能です。
鮎に例えれば生まれ変われば海に出ずに川での一生さえ可能なのです。
でも鮎はそれはできませんが、人間だったらそのトライができるでしょう。
そしてさらにいえば1日一生とも考えられます。 今日を生き抜き、生き抜く人生ことが生きる価値・生きる喜び「生きがい」ではないでしょうか。
「生きがい」とは趣味でもなければ仕事でもない、みずから生き抜く、鮎で言えば餌を捕獲する、川を遡上する、繁殖するなどでしょう。
私たち人間だって、食べるだけで精一杯の人は食べて生き抜く人生、裕福な人は多くの人に貢献する人生ではないでしょうか。
ボーっと無駄にシニア世代の時間を過ごすべきではないと思います。自分のステージにあった生き方があるはずだと思うのです。
生きがいのない人生

前章で鮎という魚を例えに人生を語ってきました。
視点をかえて生きがいのない人生について考えてみましょう。
生きがいをなくして生きた屍などとネガティブな言葉がありますが、漠然とした「生きがい」を称しているだけで「生きがいとは」
生きる喜びであり、張り合いであり、生きる価値であるわけです。
でもこの世に人として生きている限り、誰かに影響を与えているはずです。
シニアであればそれが家族であり、とり巻く社会であると思います。
たとへシニア世代において、家族縁者が誰一人いなくなり、天涯孤独になったとしてもこれまでの人生を生きてきたわけで、関わった人がいない人生など考えられません。
従って、「生きがいがない」というのはある意味「生きがいを持ちたくない」という意味なのかもしれません。 この思い込みはシニア世代には少し問題です。
生きる価値を見い出せないのは生きている価値に気づいていないだけだと私は思います。
貴方はただ何もしなくてもそこに存在していてくれるだけで良いと神様の声が聞こえてきそうです。
人は存在しているだけで、人生価値があり意味があると思うのです。
ならば存在している・生きているわけなのだから、もっと強く生きよう、何かしよう、誰かに伝えよう・・・と人生様々な生き方が生まれてくるのではないでしょうか。
金銭的な問題で暮らしに不安もあると思います。
お金がないと嘆いていても今、現実的に生きている喜びを感じられれば、今日という人生は素晴らしい一日ではないでしょうか。
明日というまた新しい1日という人生が始まります。
2 シニア世代こそ若い人に影響力を

この世には億万長者もいれば貧しくて今日の食い扶持に困る人もいるでしょう。
億万長者はより財産を大きくしようと今日を懸命に生きているかもしれません。そして今日の食い扶持のために必死に汗水たらして稼いでいる人もいるでしょう。
どちらの生き方も今日を生き抜いているのには変わりはないと思うのです。
生きがい探しより生き抜く人生
億万長者に甘んじ、もうお金の心配はないから今日は何もすることがない・・・
明日の食い扶持のあてもないから、今日はもう何もすることがない・・・
この「今日は何もすることがない」からと言ってボーッと無駄に時間を費やす生き方に問題があるように思います。
裕福であろうとそうでかなろうと、「何もすることがない」と思った瞬間からシニア世代にとっては老いが始まり、人生が終焉を迎えるステージに入っていくのではないでしょうか。
裕福度の問題でも年齢の問題でもないと思います。
魚はただひたすら餌を食べます。そして産卵期を迎えると一切食べるモノを断って、最期の繁殖に精魂をこめて生き抜きます。 私たち人間も人生ただひたすら稼ぐ、学ぶ、考える、教える、育てる・・・懸命に1日を生き抜くのが定めなのだと私は思います。
そしてもう手足も動かず、何も考えられない、何もできない時が来たら、食を断って最期を迎えたいと私は思っています。
生きがいとは今日を懸命に生き抜き、今日を生き抜く努力こそが人生の生きがい、生きる価値、生きる喜びなのではないでしょうか・・・
シニア世代の役割
私たちシニア世代にとって定年退職と同時に肩書と名刺を失ってしまいます。
言い換えれば、肩書と名刺だけが生きてる証、生きがいでした。
でも定年退職後、時間の経過とともに現役時代の思い出などシニア世代にはなんの価値もない現実に気づきます。
退職してからも先輩面をして時間つぶしにやって来る先輩を後輩は疎ましく感じているにちがいありません。
シニアの自分は彼ら後輩に何を残してあげられたのだろうか、余計な苦労と苦痛を与えてしまったのではないのかと後悔の念に苛まれます。
せめて先輩面することなく、呼ばれなくば姿を出さず、ひたすら新しい人生において新しい目標を定めて生きていたいと思っています。
私たちシニアでなければ伝えられない知恵、シニア世代だけが味わった経験などを今の若い人たちにどんな形であれ伝えていきたいと思います。 そういう意味で若い人に大きな影響力をあたえるシニアでありたい思います。 子や孫にそして周囲の子供たちにいろんな話をしてあげられる爺様でありたいといつも思っています。
3 生きがいを感じて今日を生き抜く

生きがいを持とうとするから何か探さなくてはならない、作らなくてはならない・・・
などと心が狭くなって苦しくなってくるのですが、生きがいを感じるものであるなら
例えば今日、子供たちに懸命に食事を作ってあげ、子供たちから「お母さん、おいしい・・!」と歓喜の歓びを聞けたらこれほどの幸せはないと思います。
その時に初めて子供たちのためにという生きがいを感じられるのではないでしょう。
幸せとは「なるモノ」ではなく「感じるモノ」と知った時、目の前がパーッと開けたような気がしたのを覚えています。
大切な真理は今日を生きている現実に感謝して懸命に今日を生きる! 「今日やるべきことがない」というのは億劫であったり、やる気がないとかそういう範疇にあるように思います。 お金のない人はお金を稼ぐ必要があります。お金のある人はもっと稼ぐのかもしれません。 そしてまたそのお金を使って若い人たちのために活動する仕事だってあると思います。 自分が今日やるべき勤めを懸命にやるきる。これしか人の生きる道はないように思えます。
いろいろな境遇の人が懸命に一日を生き抜き、感じられる「お金をかせぐよろこび」「若者の道しるべのよろこび」「社会貢献のよろこび」・・・
これこそが生きがいなのだと私は思います。
4まとめ(生き抜いてさえいれば)
私たちシニア世代にとって老いる不安、健康に対する不安があります。
でもこのシニア世代までに何度も生死を分けるような出来事に遭遇してきたのではないでしょうか、
あの時、一つまちがっていればとっくにこの世にはいない。そう思える人生が私にも何度もありました。
これから先においても同じだと思います。
何度も生死を分けるような出来事が起こりうるでしょう。
でもその時々に考え、信念に従って決断して生き抜きさえすれば後悔はなく、
たとへ不幸にも朽ち果てたとしても生き抜いた思いさえあれば人生後悔はないと私は思います。
今日一日を懸命に生き抜く努力こそが生きがいそのものではないでしょうか。
シニア世代の私たちにとって生きがいとは!生きがいを作り出す!などという人生訓をまとめた本もたくさん出版されています。 でも生きがいのない、また生きがいを失った人生をおくるシニアもたくさんいらっしゃると思います。 でも私は、生きがいなどと雲をつかむようなものを求めてさまようよりも、今日すべき仕事をやり切る人生こそ生きがいだと考えます。 シニア世代にとって、今日すべき任務がない人などありえません。 あるとすればすべき任務に蓋をして生きがい探しとすり替えているだけではないでしょうか・・・
今日食べる糧がなければいやおうなしに稼がねば生きていけないのです。
その日暮らしの寂しい一人暮らしであったとしても懸命に生き抜きさえすれば何か稼ぐやりがいも、生きがいも感じられると信じています。
いかがでしたでしょうか、ここまで私自身が日々考えている生きがい論!その一端をまとめさせてもらいました。
最後まで読んで下さり、心から感謝します。ありがとうございました。
なお、生きがい関連で次の記事も興味深いと思います。ご一読ください。
初稿:2019年1月26日
けんこう水泳運営者の石原(@T.ishihara)です。